2011年5月13日

関根誠子句集『浮力』・・・

 『浮力』は、関根誠子の第一句集『霍乱』に続く第二句集。装丁はコスギ・ヤエ。栞は石寒太に池田澄子。集名は、

   かなかなの声の湧きわく森の浮力     誠子

からのもの。座五の「森の浮力」が中七「声の湧きわく」をよく支えている。「森の力」ではなく「浮力」としたところが作者のネライか。力と浮力ではまったく違う。「声の湧きわく」から「森の浮力」への言葉の斡旋は、周到である。蜩のかなかなの声は確かに湧く感じがある。ここでも「湧きわく」と書いたところは作者自身の手の特徴であるかもしれない。

このあたりの事情については、「言葉のくり返し(リフレーン)も誠子俳句の特色のひとつ」と石寒太が栞に記していることからも伺える。ぼくの好みの句から、

  少しだけ流離ほんの少し秋雨

  今日は今日の記念日であるつくしんぼ

もっとも、かなかなと鳴く蜩には、その〈日暮らし〉が通奏してしまうのはぼくの悪い癖かもしれない(失礼!そこも、勝手に逸れて読む魅力なのだが)。

もう一人の栞文・池田澄子は、いつもながら、「誠子は手を抜かない。この句集の中の俳句はみな一所懸命だ」と作者の人柄に触れながら、一挙に句の有り様に転筆させてゆく。

   走つて走つて走つてゐるけれども芒

には、「俳句の言葉の我慢をも知っていて、作者が秘めた思いは、それ故に読者にじわじわと伝わる。『けれども』は、一句を散文化させがちな措辞だが、理窟として働かせようとせず且つ叫んでいないから、淋しさを倍加させる力をもった。訴えるのではなく謙虚に無心の呟きで終わらせているから、読む人は引き込まれるのである」と言い当てている。もし、この句が「走って走って走っているけれども芒」と池田澄子のように現代仮名遣いで書かれていたら、この句の淋しさの趣は変わって来るのだろうか。もし、変わるとすれば、促音「つ」と「ゐ」の表記の効き方の違いに由来するように思えるのだが・・。ここまでくると、句を書く際に「仮名遣い」をいずれに選択するのかという命題は、俳人にとってけっこう重大な要素を含んでいるのではなかろうか。

(話題が逸れてスミマセン)

実は批評精神の明らかな句もけっこう多い。ぼくの好みの句を揚げさせていただきたい。

  原爆資料館出て唖蝉に囲まるる

  わくら葉が散る人間に過去・未来

  父祖の地の青き嵐も売り渡す

  雲だけが少し秋めく基地の街

  太郎を眠らせ産業廃棄物場に雪

  軒風鈴けふ英霊のひしめける

  八月十五日眼鏡がひどく汚れてゐる

ともあれ、さまざまに楽しめる句群であることは言を待たない。

とはいえ、人間の「さびしさ」は詩歌の根を刺戟して止まない。

   しあわせさうと幸せ違ふポインセチア

   リベルタンゴ初雪のすぐ雨に

   もう褒めてください堅香子はこれで満開

 堅香子(片栗)の写真は佐藤知継。

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