2011年6月28日

武宮至『祈念』・・・

武宮至著『祈念』

 「祈念」という集名からも察しがつくように、「祈」を含む句が多く詠まれている。煩をいとわず上げてみよう。

  青葉若葉深き祈りのいろをなす      

  祈るがごとくはつ夏の海深し

  祈りのいろに夕日入る冬の海

  地に祈りあり天上にいわし雲

  しづかなる祈りに深き冬の天

  春夕焼祈りは言葉ゆるさざる

  生き死にの祈りひとすぢ夕焼くる

  寒月しんとつつがなき日を祈る

  秋夕焼深き祈りはひざまづく

  祈りあり紅葉濃き日のしづけさに

  かなしかりけり蒼天の冬の虹

 これらの祈りの句群のなかでは、最後から三番目の「秋夕焼深き祈りはひざまづく」が、祈りそのものを詠んで訴求力があるように思える。最初から4番目の句には、ぼくの勝手で、どうしても楸邨「鰯雲人に告ぐべきことならず」を思い起こしてしまう。それは「地に祈りあり」が沈黙のさまを想像させるからだが、楸邨句の通俗性を抱え込むように思った瞬間「天上に」で拒否されてくる(悪い意味で言っているのではありません)。そのことは、一巻が清澄さに貫かれている印象をもたらしていることにもつらなっていよう。さらに言えば、祈りとともに、この句集の特質はなんといっても「ひかり」に包まれているということではないだろうか。その「ひかり」の因ってくるところは、巻頭扉に掲げられた「国破れて山河あり/城春にして草木深し/時に感じては花にも涙を濺ぎ/別れを恨んでは鳥にも心を動かす―杜甫―」の詩行にも由来するかも知れない。

実に様々の「ひかり」に出会うことが出来る。そこでは、「ひかり」が直接詠み込まれていなくても、「ひかり」を感じることができる態のものである。例えば、

   野ぶどうの瑠璃みほとけのいろをなす

   咲くということひとすぢに冬すみれ 

   二月くる遠きひかりの澄むように

   蛇笏忌の裏山に日の移りゐる

   早春の山河はあるがままに光る

   菜の花明かり日輪は空深く

   花あぢさゐ生死のあはひ淡くあり

   月光にコスモスの野の果てなし   

   一病に今日の海あり花芒

   残照といふはるけさの年の暮

   ちちははの浄土恋しき冬の月

   雉子の眼のまことを見つむひかりあり

   ゆく夏の白雲遠く浮く日かな

   みほとけの淡きひかりも秋の暮

   水といふきらめくものにさくら咲く

   みどり濃き母の忌の灯をたてまつる

   生者より死者あきらかに冬の月

 まだまだ多くの句が抽出できるのだが、その余は、読者の楽しみとして読んでいただくことにしよう。

   風しづかなり万緑のしんとあり

そして、前掲句の副詞「しん」を加えれば(「しん」もいくつか出てきます)、まさに武宮至の世界が彷彿とする。

ともあれ、ぼくのもっとも好きな句を最後に上げておこう。

   移るともなく行く雲も年の暮

 

ひまわり02

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