2011年9月 6日

林誠司『退屈王』・・・

林誠司『退屈王』

 わが編集長の第2句集『退屈王』。

第一句集『ブリッジ』に次ぐ第2句集である。かのモンテ=クリスト伯の岩窟王ならぬ退屈王。

「あとがき」によると今を去ること数年前の鬱屈した日々の喩えのようである。いえば「無気力と怠惰の日記」なのだそうだ。

とはいえ、その無気力と怠惰にケジメをつけて、今後を生き抜くために、整理すべきは整理してしまおうという心根の現れと受け取っておくのが正解だろう。

さらに、いささかの謙遜をまじえて「私は自然も風景も上手には詠えない。詠えるのは私の人生だけである」と言挙げしているが、ひょっとしたら、自然も風景も上手に詠うつもりなどはない、といいたいのかも知れない。「詠えるのは私の人生だけ」というのも、小生のようにいい加減に生きてきた者にとっては辛い言葉である。それだけの矜持に支えられる人生があるだけで羨ましい気がしないでもない。

父を詠えば、

  はるかより何を乗せたり青北風(ならい)       誠司

  父いまも俳句を嫌ひ鰯雲

  冬晴の日よ線香の消ゆるまで

これらの句には前書「父死去 六十六歳」とある。

また、

  冬あたたか潮(うしお)は父の忘れもの 

  父の掌の厚みでありぬ朴落葉

  おほぞらに父をり桜降らせをり

  はちまきの父につきゆく祭かな

  父のこと子のこと桜満ちてをり

  はこべらや日にさらさてれ父の墓

  春の雲父おもふごと国思ふ

 など、このほかにも多くの父恋の句がある。小生は、ほぼ父と暮らしたことがないので、こうした思いも、まして思い出もない。それゆえであろうか、いささかの切ない感じを伴う。

一転、次の句の父は、林自身である。

  父の日の風のネクタイ締めてをり

いずれ退屈王には家族を詠った句が多いが、それも「私の人生」というならば、当然ながら、現在、離れ離れに暮らしている妻子のことも詠まれている。

  中でも出色は、「長男」の前書のある句、

  歯ぎしりの顔の出てゐる蒲団かな

 であろうか。あるいは、

  長男と同じ背丈の涼しさよ

  夜の風鈴罵り合うて妻が泣く

  しわくちやの離婚届よ冬芒

  ハートあり星あり春のらくがきは

最後のハートの句には「離婚 子と離れる」の前書がある。

 さすがに、現代に生きる「私の人生」には、3.11を詠んだ句も登載されている。

  炎天や芭蕉も田村麻呂も被曝

  放射能といふ炎昼のふぶきけり

 最後に小生のもっとも好きな句を挙げておきたい。「F1レーサー、音速の貴公子」の前書のある句、

  アイルトン・セナの忌日のハンモック

セナの忌日は1994年5月1日、小生など古い世代の人間は、5月1日といえば、メーデーしか詠えない。セナはブラジルの人、34歳の若さで事故死した。ハンモックとはおよそかけ離れたレース場という揺りかごなかで・・・。

たでの花・風船カズラvol.1

 ところで、今日の編集部は、10月号の日販と栗田出版の搬入部数交渉。そして、編集長は俳人協会俳句大会取材、本誌の印刷所への入稿となかなかにバタバタとした一日だった。

 それでも、少し風の感じが秋めいてきた。

たでの花・風船カズラvol.2

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朝顔と大毛蓼の花似合いますね。秋らしい構図です。我が家の大毛蓼は小屋根の高さまで伸び今が盛りです。

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