2011年10月 4日

「街」十五周年記念号・・・

 金木犀vol.1

 本誌に連載の小説・「受験巡礼」の著者、今井聖主宰「街」が創刊15周年記念特集「俳句進化論」を掲載している。

 高山れおな・今井聖・竹内宗一郞の鼎談「韜晦と洗練を超えて」は、辛らつな現代俳句批判だ。高山れおなは「ゼロ年代の俳句100句選、今井聖は「現代俳句秀句二十句」を選び、具体的な句の評価をめぐって随分と違う姿勢ながら、それだけに作家としての姿勢があらわにうかがえて面白い。

 他に友岡子郷「不易流行のことなど」、中岡毅雄「俳句退化論」、依光陽子「にこにこ笑いながらバッハを弾く」、など、進化そのものに懐疑的な論も並ぶ。

 もっとも、新「街宣言」(あらたに書き替えられた)には、「俳味、滋味、軽み、軽妙、洒脱、飄逸、諷詠、諧謔/達観、達意、熟達/風雅、典雅、優美、流麗/枯淡、透徹、円熟ではないものを私たちは目指します」とあり、さらに「肉体を通して得られる原初の感覚を私たちは基点に置きます。私たちは『私』を露出させ開放することをめざします」とある。

 これまでの街の成果として「街の百句」今井聖撰も掲載されている。

具体的な作品こそが雄弁に語っているという自負があるのだろう。

 おおよそ,現在の結社誌のスローガンが「生きている証を」とか「大自然の美しさを詠もう」とか「写生の追求」とか大人しめ、微温的なものが殆どのところへ、まるで喧嘩でも売っているような意気込みである。

 先般は小澤實主宰「澤」の創刊11周年記念特集・永田耕衣もそのページ数の多さと内容の緻密さでは、俳句総合誌をしのぐという新聞評まで出たくらいだ。

 そう考えると、俳句も何処に向かうのかはっきりしないけれども変革の時代を迎えているのかもしれない。しかも、それを事実上領導しているのは、こうした、明確な方針を具体化するバイタリティーのある主宰者のもとに結集し始めている若手俳人である。

 インターネットによって新たに出現しつつある世代、その俳句とメディアとの関係。

 思えば子規だって、当時はもっとも新しいメデアである新聞を根城にしたのであった。

紫式部.jpg

 閑話休題。

 ところで、全く意識してはいなかったことだが10月号魅惑の俳人・清水径子の命日は10月18日。

いい供養になったかもしれない。その句セレクションの中の、

  桃のスープ人はやさしきことをする       径子

 この句の人とは、阿部九鬼男のことである。阿部鬼九男が、何かにの折りに、桃のスープを手作りして、清水径子をもてなしたのである。

金木犀vol.2

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コメント(2)

  

大井さま
 本日(11/22)ご文章を拝見しました。
  清水径子さんの句にふれて、小生のことまで、おっかけて くださってありがとう。
 径子さんのこと、あらためて思い出しています。
 お礼まで。               鬼拝

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