2011年10月10日

柿本多映の俳句入門『ステップ・アップ』・・

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 本書は平成13年4月から一年間、隔週で産経新聞文化欄に連載されたものと、他に2編のエッセイを収めた瀟洒な新書版の一冊である。表紙の挿画は五木玲子(五木寛之夫人)。

およそ入門書など書きそうもない柿本多映の俳句入門の書である(それだけにレベルは少し高いかも・・・)。ステップ・アップもさもありなんというわけである。

それは帯に「初心者から、ワンランク上を目指す人まで/俳句の本質をつかめる必読の俳句入門書」と惹句するように、いわば柿本多映流の入門書と思えば、それはそれで味わいはまた格別なのである。

しかも、親しみやすい名句を例に・・・とあるが、じつは各ページ(テーマが変わるごとに)に掲げられている柿本多映の俳句が、また良いのである。

最初は、   

   出入り口照らされている桜かな        多映

さらに任意に抽出すると、

   洞の木や蝶の骨など重なりて

   青葦原つめたき昼を通すなり

   うたた寝のあとずぶずぶと桃の肉

     悼 三橋敏雄氏

   君逝くや曲りても曲りても黄落

   真夏日の鳥は骨まで見せて飛ぶ 

   隠沼に空席ひとつあるにはある

 前掲の「隠沼に」の句は、当然ながら「字余り・・・独特の文体リズム」の項目の前に置かれているし、「悼三橋敏雄氏」の前書のある句には、「慶弔贈答句・・・力まず、素直に」の項目の前ページに掲げられている。

 つまり、柿本多映の句作の機微におのずと触れることができる、なかなかに行き届いた構成になっているのである。

 他に、具体例を挙げてみる。例えば、昭和3年生まれの柿本多映の世代には、いまだに戦争と平和という問題は避けて通れない生きる上での大切な問題である。

「戦争・・・重い事実を只今の視点から」という項目では、長崎で書かれた金子兜太「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」の句に、ピカソの「ゲルニカ」を思い、「原爆許すまじ」という希望の思考を展開させる。三橋敏雄「いつせいに柱の燃ゆる都かな」には東京大空襲下で詠まれたことを重視して、句の持っている時代性んじ、注目し、「戦争を知る方も知らない方も、この重い事実があったことを念頭に置いて、只今の視点から自由にこのテーマに取り組んでみるのも意義あることではないでしょうか」と結び、小学六年生の句「原爆や僕の知らない夏がある」で締めくくっている。入門書でこうしたことをキチンと表現するよう、伝えて行こうとする姿勢は極めて大事なことである。というのも、俳句入門書の多くは、ごく一部を除いて、こうした時事的なシリアスな句作の方法を避けて、掲載しないからである。

 その他、目次の幾つかをひろうと「吟行」「季語の現場へ」「自然を詠む」「比喩」「諧謔と滑稽」「現代俳句の可能性」など多岐にわたり、俳句への志が随所にちりばめられた俳句の根本を理解させてくれる手頃な一冊となっている、と言えよう。

是非一読を願いたい所以である。

 この本の最後のエッセイ2編、いずれも橋閒石俳句に関するものだが、これも閒石俳句の周辺を語りながら、同時に柿本多映の俳句観が示されている魅力あふれるものだ。それは、人間存在の哀しみや知性にいろどられた諧謔、ユーモアであったりする。それを橋閒石の日暮れの思想としてまとめている。

  銀河系のとある酒場のヒヤシンス     閒石

  階段が無くて海鼠の日暮かな

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 さて、 同時発売のもう一冊は柿本多映『季の時空へ』である。

 『ステップ・アップ』とは兄妹本ともいえる見栄えで、両書とも髙林昭太装丁である。

 こちらの挿画はレオナール・フジタこと藤田嗣治。昭和11年柿本多映の父君と交遊があって、柿本家で「マドレーヌと揃って呉市に来られた折、父の自画像と共にお二人のものもスケッチして下さった」ものだという。

 従って、この素描絵は、この本によって初めて世間に公開されるといった貴重なものだと思われる。

 『季の時空へ』は平成16年から2年間、京都新聞に連載された「季節のエッセー」と同人誌「白燕」に発表されたものが収録されいる。

 新聞連載が基礎になっているので、月々の表情が変わっていく楽しみがある。それは「きさらぎ」からはじまり、「十二月」まで続く。

 小生には「小田切秀雄さんのこと」と題された章はことさら感銘深かった。それは、山ノ上ホテルで中村苑子が生前に俳壇引退を披露した生前葬のような会「花隠れの会」出席の翌日、柿本多映は上京した機会に(実兄との交遊があったと知って)小田切秀雄宅を訪ねていく。小田切秀雄著『私のみた昭和の思想と文学の五十年』に実兄・福家(ふけ)守彦が触れられおり、昭和13年当時、半月ほど福家家(三井寺)に逗留したときのこと。柿本多映にはその記憶はない。その小田切秀雄に会ったとき「守彦君が亡くなった時にね、お父上から電報で知らされたんですよ。だのに僕はお葬式に行けなかった。何があっても一番に行くべきだったんです」という件りがある。それを詫びている小田切秀雄。その守彦氏は昭和14年5月に亡くなっている。死の前年、柿本多映に宛てた手紙(昭和13年10月4日消印)には「私は富士山麓に演習に来て居ます。よく勉強なさい。兵舎にて兄」、享年21だったという。すでに70年以上前のことだ。

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