2011年10月12日

秋山素子先生来訪。。星永文夫『倭国』・・・

秋山素子

 秋山素子先生(「まがたま」代表)が午後、今度作られる句集の相談にわざわざ訪ねて下さった。

秋山素子先生は故秋山巳之流氏夫人で、『魂のはなー評伝原コウ子』がある。

   薔薇一本包ませてをりおのがため      素子

 爽やかな笑顔が素敵だった。

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星永文夫句集『倭国』はB5判箱入りの大きな本である。

活字も十分に見やすく大きい。

弊社・姜琪東が懇切にして、情の溢れる序を寄せている。

その異彩の句集の名「倭国」の冒頭には「倭国はわが原郷、わが祖国である。河に愛憎の渦はあるが、南風(はえ)が吹けば、野に繚乱と花ひらく。・・(中略)・・されど、漂泊の身にそれはただの夢、確たる〈何〉があったろう。その永遠の不在に、篳篥(ひちりき)の楽の音は空しく天上を奔るのみ」と記されている。

序章は(リチャード・ギルバートの英訳付きの句)、

   シテぽんと踏む 九月の導火線    文夫

第一章は「荒野」。第一句は、

   風五月 その荒野(あらの)に放つべし    

終章は(これも序章と同じ氏の英訳付き)、

   禽(とり)ほど静かに朝(あした)死すべし 雪

 作者はおよそこの序章と終章のあいだに愛憎の渦ならぬ物語を語らせているのである。各句の一字空き表記による空白こそ、星永文夫の想いが消されることなく、溢れている間なのである。

それは一行の詩の言語力学を活かそうとする苦難の方法ともいえる。そのことをかつて坪内稔典は、「散文的」と評したのではなかったかと思う(あまりに記憶は不確かで申し訳ないが)。

 そんなことはほんとは詩にとってたいしたことではない。

  もう寝なよ おふくろ 明日はたぶん雪

  母にしぐれ 父に木枯 ぼくに雪

如上の終章前、第18章の句群は、父母を書きながら、その実、自分自身のことと読める。いささかの覚悟というべきであろう。

  姥捨へ霧を担いではないちもんめ

 担げるはずもない霧を担ぐ、その行為こそは自ら追い求めた「倭国」に続く何かであったはすだ。その「倭国」もいまや幻。永遠の不在とはまた永遠の不可能性のうちに存在し続けるということである。それは、人に与えられた担保なきアイデンティティではないのか。その存在において、すでに幻想の「倭国」は超えられているのだ。

倭国vol.1

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