2012年2月 3日

前田英樹「剣」の法(のり)・・・

 諏訪神社.jpg 

 前田英樹氏は本誌4月号「密教について」のエッセイを、宗教学者の山折哲雄氏ともども執筆していただく気鋭の評論家。現在、立教大学映像身体学科の教授にして、新陰流研究の古武道家である。

 デビューの本は、丸山圭三郎の弟子らしく『沈黙するソシュール』(書肆山田)、その後立て続けに『言語の闇を抜けて』『小津安二郎の家』を世に問うた。そして、『小林秀雄』『セザンヌー画家のメチエ』『宮本武蔵「五輪書」の哲学』、さらに『絵画の二十世紀』『倫理について』『独学の精神』『保田與重郎を知る』など、著書多数で、今、乗りに乗っている評論家だ。

 現在「ちくま」(筑摩書房)に連載中の「『剣』の法ー「クネり打ち」とは何か」(第16回)は、新陰流兵法の何たるかを、その剣の極意とともに、実に実践的に書き上げているものだ。太刀筋、身体の位置、勝ち口など詳細にわたっている。

 かくいう小生は20歳代後半、今は刀禅会と名付けて、真剣を想定した剣法と形意拳など中国武術を総合した新たな流儀を広めている、知る人ぞ知る達人の噂高い小用茂夫氏とともに、当時新陰流兵法「転(まろばし)会」の渡辺忠成先生の膝下で、若くして師範代を務めていた前田英樹氏に稽古をつけていただいていた。

 世にいわれる柳生新陰流は江戸柳生、尾張柳生に受けつがれ、三代目にして江戸柳生はすでに勢法(かた)を欠伝し、幕末では殿様剣法と揶揄され、その正伝は尾張にあったとされている(裏柳生)。その尾張柳生の正伝を受け継いでいた渡辺忠成先生とともに、前田英樹氏は「上泉伊勢守に帰れ」という思想を掲げ、ひたすら武道の何たるかを追求していた(30年ほど前、すでに若手武道家として甲野義紀氏と並び称されていた)。

 小生は10年間くらい「天狗抄」をいただくのがやっとで、俗事にまみれ多忙を極めたなかで、稽古に通う時間がなくなって、新陰流転会を止めてしまった(一人稽古は少し試みたが・・・)。

 それでも、先人から「ゆめゆめ争う事なかれ」「力ではなく業(わざ)」「後の先」など、学んだことは多い。

 極意の剣はなんと言っても、必勝の剣「転(まろばし)打ち」、小説などで世に喧伝されている「柳生兜割り」でる。簡単にいえば、自分の中心軸に沿って、ひたすら真っ直ぐ打ち下ろす太刀筋の剣である。

 この極意の剣は、免許の段階が一つ上がるごとに一つ、先生から、一度だけ教わる剣である。免許皆伝は「印可」と呼ばれていた。

 通常の稽古は勢法(かた)稽古に終始する。防具はなし。竹刀は袋竹刀・蟇肌竹刀(ひきはだしない)と呼ばれる竹の先を8つに割った上に皮袋をかぶせたものを使う。新陰流では上泉信綱が考案したと伝えられている。実用的で、当っても、いわゆる剣道の竹刀ほど痛くはない。

古武道の剣は、もちろん左右どちらからでも出る。当然左右どちらでも受ける。円の動きに極まる。

 小生は「小転(こまろばし)」「大転(おおまろばし)」「天狗抄」まで三段階までしか登れなかった。

 何しろ、始めた心がけがよくない。仕事が終って、一週間に一度くらい、運動不足解消に、しずかに稽古ができるのがいい、という程度だった。静かといえば、新陰流の稽古では大声を出すことはない。

 呼吸の音のみが聞こえる・・。それでも、汗が出て来る。

 実際、位(くらい)取りは、相手と自分の気を位を感じることもあった。

 小説に出てくる柳生石州斎の「真剣白刃取り」などといいう業は無かったけれど、「無刀取り」はあった。そして「無刀の位」というのもあった。

 いずれ、小生は不肖の弟子であったが、映画「七人の侍」の決闘シーンでは、当時、柳生流を殺陣師に教えた人がいて、「三学円之太刃(さんがくえんのかた)」の第一「一刀両断」の組太刃とよく似ていて、何度か観たように思う。

 「真剣ならば私の勝ち・・・」という科白が忘れられない。

三鷹駅前vol.120203

 閑話休題・・

 今日の編集部は、今日で3月号の印刷所入稿をほぼ終える。編集後記もそれぞれ書き上げた。

 このあと、スタッフ松本と、出版部の齋藤は、坂口昌弘氏と次に出す評論集『平成の好敵手』(仮題)の制作打ち合わせに出かける。

 入稿後の打上げには、編集長推薦の九段下某所の居酒屋に行くことになった(ホッと一息・・・)。

栗田・界隈、池袋ジュンク vol.120203

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  と、あるご縁から 愛読?しています。
 好きな紅茶のあるお店での 時間として。

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