2012年2月23日

田島邦彦氏インタビュー・・

田島邦彦vol.120223a

 5月号、魅惑の俳人「寺山修司の俳句について」、歌人の田島邦彦氏にインタビューをした。

 短歌では、寺山とほぼ同時代を生きてこられた田島氏だが、私は俳句については門外漢と仰られながら、話は出版されたばかりの長谷川櫂『震災句集』と昨年の『震災歌集』、寺山修司との類似する心根までに及んだ。

 田島氏は寺山修司とのこともさることながら、岸上大作との縁がさらに深い。岸上が渋谷の古本屋で買って、遺品として手元にある寺山修司第一歌集『空には本』まで持参されていた。

 茶色に変色したその本をめくると岸上大作が付けたと思われる歌のチェックの◎が目に飛び込んできた。

 田島氏が寺山の短歌と出合ったのは、まだ、高校2年生の頃、四国香川高松で、昭和32年、たまたま書店でみた'58年「短歌年鑑」に出ていた寺山修司「声なき斧」10首だった。

  雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱 

  歌 

  帆やランプ小鳥それらの滅びたる月日が貧しきわれを生かし 

  む

  胸病めばわが谷緑ふかゝらむスケッチブック閉じて眠れど

 それまでは吉井勇が好きだったらしい。とにかく、まったく新しい短歌の世界に目を奪われたのだ。

 2年後大学に入り上京すると、すぐに寺山修司との面識を得ている。19歳のときだったという。

 数字にまつわる因縁話も面白い。

 田島氏が19歳で寺山に会い、昭和39年生まれの息子さんが19歳のとき、つまり同じ大学一年のとき、阿佐ヶ谷河北病院で清掃のアルバイトををしていたその夜、やたらとマスコミなどが病院にきて騒々しいかったのだそうだ。

 それもそのはず、翌朝の新聞には、寺山修司死すの活字おどっていたという。寺山修司47歳。'83(昭和58)年5月4日のことだ。息子さんはいま47歳だそうだ。

 当時、愚生が覚えているのは、同年7月8日、高柳重信もまた60歳で逝ったということだ。

  五月修司七月重信逝ける空はも     恒行

と詠んだことがある。

 ともあれ、寺山修司の作品に衝撃を受けた田島氏が創った、もっとも初期の作品は、

 故里の屋島の山の寂しさよやすやすと夕靄に包まれ終る  

                                      邦彦

 南極のペンギン鳥も交りゆく港まつりの夜のにぎわい

 

 最期に寺山修司の俳句で好きな俳句をいくつか上げてもらった。これもなかなか独特だ。

   私生児が疊をかつぐ秋まつり       修司

   月蝕待つみづから遺失物となり

   秋風やひとさし指は誰の墓

 次の句は分らないので、愚生はどう思うかと質問されてしまった。ムム・・・・。

   法医學・櫻・暗黒・父・自涜

田島邦彦vol.120223b

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