2012年3月16日

長谷川櫂句集『古志・天球』・・・

高島屋

 今日の編集部は編集長が5月号セレクション結社の撮影と取材で「海」高橋悦男氏のところへ、

 また、スタッフ三東は、俳句界NOWで、檜紀代(遠矢主宰)氏のところへ撮影、取材に出かけている。

 愚生は例によって、昼を食したあと、ふらふらと、会社のある高田馬場・馬場口から早稲田方面に坂を下って、古本屋100円コーナーを物色。

 ありましたねえ、句集や歌集や詩集、また詩歌の評論集など、思わず手が出てしまいそうになりましたが、愚生がかつて生活費の足しに処分した塚本本まで(さすがに100円コーナーではないが、ひょっとしたら、2~3日すれば分りません、値付けなく、積み上げてありましたからね)。

 なかに長谷川櫂氏の『古志・天球』(花神社)もあった。

 今や天下の長谷川櫂句集がこれではあまりに気の毒と、100円を出して求めてきてしまいました。

 (すでに所蔵本もあるので、山ノ神の怒髪が目に浮かんだが・・・)。

 改めて言うまでもなくなく、初期の長谷川櫂氏の句はなかなかいいのです(懐かしいです)。

 この句集には、「夜の風鈴」と題した石田波郷論、「柿」と題した正教寺文暁の芭蕉もの『花屋日記』について記したエッセイも収録している。100円でのお得感は十分だ。

 一文と句を引いておこう。

  「俳人は無邪気にも俳句を自分の表現手段だと思っているが、俳句という生き物からみれば、俳  

 人のほうこそが表現の手段なのである。この生命体の幼虫は、個々の俳人に目を奪われるあま 

 り、俳句全体の姿を見失いがちな近代の俳句を再び反転させる力を秘めているはずだ」(柿)。

    春の水とは濡れてゐるみづのこと     櫂

櫂古志天球vol.1

夢座・上野vol.1203161

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コメント(2)

  

「俳句という生き物からみれば、俳人のほうこそが表現の手段」いいことを聴きました。眉間に皺をよせて作るものでは、ないのですね。

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