2012年3月30日

小川濤美子氏にインタビュー・・・

小川濤美子自宅インタビュー vol.1

 7月号、魅惑の俳人・中村汀女について小川濤美子氏にお話をうかがいにご自宅にお邪魔した。

 編集長・林に変って、急な代理で、予備の勉強もままならず、いつものでたとこ勝負になってしまった。

 ご自宅と主宰誌「風花」発行所が同一と勘違いした愚生は、発行所に行って、インターホンも電話をしてもお出にならないので、留守だな~、急用でもできてお留守にされたのかな~と思って、約束の時間より30分は発行所前に春の陽を浴びて、日光浴で眠くなっていた。

 仕方なく、駅の近くの喫茶店に入って、時間をつぶして、もう一度お邪魔しようと、置手紙を書いてポストに入れた。喫茶店でお茶を注文をしようとしたそのとき。会社から携帯電話に「まだ、お見えにならないけど・・と、濤美子先生から電話があったけど、何してんの?お怒りよ~」。

 「え~、そんなばかな・・お留守???」といいながら、改めて電話と住所を聞いたら、番号は違うし、住所もわずかに違っていた。

 とにかく、ご自宅に電話をして、自宅は通りが一本違うことを教えていただいて、なんとかたどり着いたが、まったく迂闊だった。

 結局、インタビューは、予定時間をオーバーして、中村汀女に関して色々お話いただいた。

 その内容については、本誌7月号をお楽しみにしていただきたい。

 愚生は小社入社以前にどこかの会の折に一度だけ名刺をいただいたことがあったが、全く初対面に等しい。それでも濤美子氏からどこかでお会いしたことがありそうね・・と愚生の遅参を咎めるふうもなく、聞きたいことは自由にどうぞと仰っていただいた。

 小川濤美子氏は母・中村汀女を長年に渡って補佐、汀女の死去により、「風花」を継承された。編著書に『汀女俳句三六五日』、エッセイ集に『中村汀女との日々』などがあり、とにかく汀女を支え続けた方であり、ご本人も汀女に関わり続けた一生ね、と仰る。

 で、愚生の最初の質問が「濤美子先生はいつ頃俳句を始められたんですか?汀女に習われたことはあるんですか?」だった。すかさず、「汀女が私に俳句を作れと言ったことは一度もありません。主宰を引き継いで、初めて俳句を作ったのよ」。「だって、1000人以上のお弟子さんたちを放っておけませんでしょ・・」。しかし、汀女のそばで、日常生活を含めて、原稿整理、執筆など長年に渡って汀女を支え、厳しくも教えられてきたから、いざというときの対処もきちんと立派に行ったにちがいないと想像した。

 今年6月10日には米寿のお祝い会も開かれるとのことっだった(米寿とは思えない若さを感じさせられました)。米寿といえば汀女の没年である。

 明日からは滋賀・近江八幡にお出かけとのこと、全国を飛び回って超多忙のご様子だったが、どうやらそうして「風花」会員の方々と会うのが元気の源のようだった。その「風花」は昭和22年5月、中村汀女が創刊。モットーは「今日の風、今日の花」その時心新しく俳句すべし、との汀女の言があり、題字は、かの「暮らしの手帖」の花森安治である。

 

風花

 帰りに第3句集『来し方』をお土産にいただいたので愚生好みの句を少し紹介したい。

 因みに平成14年から18年にかけて369句が収載されている。

     山笑うふまでに至らず富士裾野            濤美子

     夕待たで花ほつかりと月見草 

        若布刈公園の汀女句碑「延着といへ春暁の関門に」

     母ここに在ますや句碑の辺薄紅葉

     折れ伏してなほ万の花富士桜

     一瞬に木々みな隠し春の霧

     眼にあふる涙見ぬふり夕薄暑

     風生も眺めし湖や丘花野

     暖かや朝より鳥の来て弾む

     ふり返る春夜の伽藍輝けり

     母の文字力漲り冬暖し

     春寒し引戸重たき母の家         『富士薊』

     和紙明りかすかにゆらぎ灯涼し       『和紙明り』

 インタビューを終えて、渋谷の書店のいくつかを「俳句界」4月号の動きをチェックしに回った。

 紀伊國屋書店渋谷店、ブックファースト渋谷文化通り店には、店頭在庫があったが、啓文堂書店渋谷店、有隣堂書店恵比寿にはなかった。         

書店多仁こぶし

 

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コメント(1)

  

中村汀女先生のお子様とは知りませんでした。いろいろ勉強できます。有難う御座います。

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