藤原月彦句集『貴腐』・・・
藤原月彦は1952年生まれ、1973年「俳句研究」50句競作に応募するために俳句を書き始めた。第一句集は『王権神授説』である。『貴腐』の跋は中島梓が書いている。
ご存知の方も多いと思うが、俳人・月彦は歌人・藤原龍一郎のことだ。
(小誌「俳句界」でも巻頭三句鑑賞を連載していただいていた)。
寺山修司のように俳句から短歌に転身したようにおもわれがちだが、そうではない。
もともと、短歌を書いていたのだ。小生の記憶に間違いがなければ、早稲田短歌会に入りたくて、慶應大学を辞めて、早稲田大学に入り直した。
例によって小生は昼の食後の散歩で馬場口から下って、古本屋の100円コーナーへ。あろうことか、『貴腐』があった。山本健吉俳句読本もあった。月彦とは同志のようなものだったから、『貴腐』は売らずにとってあるが、躊躇なく買った。
中の句にチェックが入っている。箱も少し痛んでいるが、差し支えはない。
当然といえば当然だが、俳句に命を燃やしていた俳号・月彦では、藤原龍一郎は、いま、俳句を書いてはいない。その懐かしい『貴腐』の句、
夏寒し壺の中にも幾山河 月彦
わが影も晩年に入る籾ぼこり
敗走や父のラバウル亡兄(あに)のパリ
晩春の水にわれなき世界あり
誰もゐぬ部屋にも椿落ちにけり
残像のわれとわが逝く秋彼岸
晩春の鳥が人語を発しけり
妹よなぜ麦秋に血を流す
月彦29歳のときの第二句集である。それにしても早い晩年意識ではなかろうか。
ともあれ、いまは俳句の方は、俳号・媚庵(びあん)で楽しんでおられるようである。
媚庵は、『日々の泡』のボリス・ヴィアンに由来するらしい。俳句は日々の泡のようなのかも・・・
無頼派と呼ばれることもなき日々を悔まざれども終に唾棄せよ 龍一郎
フジワラちゃんと呼ばれることもうべなえばああなまぬるき業界の風
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