2012年6月 7日

国見敏子『幕間』・・・・

国見敏子『幕間』vol.1

 句集名は、次の句からのもの。

    幕間(まくあい)の昂りに似て末黒野は       敏子

 寡聞にして事実は不明だが、役者であるらしい?著者は、舞台の幕と幕の間に、独特な昂りが訪れることを経験されているのだろう。

 次の幕が上がるまでの、余人には、うかがいしれない心情だと思う。

 それが、春の野の草木を焼いたのちの黒々とした野に表徴されている。

 宮坂静生氏の懇切な序文によると、第一句集を『序幕』といい、その後23年間の句が、第二句集『幕間』に収録されているという。

 著者「あとがき」では終幕かも知れないと謙遜しておられるが、そう名付けられなかったところをみると、まだまだ、幕間に過ぎず、昂りをもって、第2幕以後も演じきろうとなさっているようである。 

 父恋母恋そして夫、すでに故人となられ、かつ幼少にして父を戦争で失い、母も著者が長じてまもなくの他界されたようで、およそ「青春はがむしやら雪の深轍」のように生き、そして、実に多くの句が、それらの死者のもとに奉げられているようにさえ思える句群である。

      十二月八日すなはち父の忌ぞ

 父の忌は第二次大戦の開戦日(昭和16年)だというのには、著者の無念と戦争批判が込められている。戦死公報による死は昭和19年10月29日、南太平洋ブカ島。著者は、まだ三歳で、父の思い出はない。

    青柿や父に習ひしなにもなく

    死して母はじめて化粧ふ天の川

    ぶらんこを蹴り父きらひ母きらひ

 上の句は恋するがゆえの「きらひ」である。

    雑炊がうまし戦は知らざりき

 戦火の野は、またしても末黒野、

    末黒野に立つやコソボは戦の火

 十二月八日にはほかの句もある。

    からつぽの野に立つ十二月八日

    十二月八日京菓子のがんぜなや

    十二月八日未明のファクシミリ

 同じ日だが、こちらはジョン・レノン忌、句集掉尾を飾る、

     水の上に鳥立ち上がるレノンの忌   

 最期に小生好みの句を上げておきたい。集中の第一は、

     祭なるくらがり売りの儚物(はかなもの)

 に指を屈する。次の句は涙ぐましい。

    誰も和さずわが青春の労働歌  

 そして、

    枯野行き電車よはじめから枯野

    引導を受くるは生者青嵐

    稗抜くや吾が為に泣く暇(いとま)なく

    ぼろぼろにならねば死ねず青嵐

    死ぬ前もかく冷たかり未草

 確かに宮坂静生氏の記されたように根底には「覚めた女性のさみしさやかなしみ」が・・・。

  読者の方から水芭蕉↓

水芭蕉.JPG

 閑話休題・・・

 昨日、レイ・ブラッドベリが91歳で亡くなったと新聞記事が出ていた。

 まつわる思い出は攝津幸彦の未完にして未刊句集「451句」である。

 攝津はブラッドベリのSF小説『華氏451』に想を得て、句集名も『451句』として、生前に予定していた。

 何よりも華氏451度というのは紙(つまり本)が燃え出す温度だそうである。

 その未刊となった「451句」から、

     地球二個ありて一個の蚯蚓鳴く      幸彦

     大砲も撃てざる君へ定家の忌

     蝉時雨もはや戦前かも知れぬ

     チウと泣く嫁が君とか君が嫁とか

     春ショール春の波止場に来て帰る

     生涯に使はぬ言葉茂りあふ

     芋煮たの秋刀魚焼いたの人死ぬの

     靖国の桜の上に暴るるもの

     糸電話古人の秋につながりぬ

ナデシコ↓

6月白夾竹桃・栗の花ほかvol.4

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コメント(2)

  

私の句集「幕間を取り上げていただきありがとうございます。うれしかったです。
私は役者ではありません。いつも虚と実を行き来して、どれがほんものの私であるか解らないという意味で宮坂主宰が役者とイメージしたことと思います。
 第1句集は「除幕」ではなく、「序幕」です。よろしくおねがいします。

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