2012年9月25日

俳句文学館へ・・・

蓼の花vol.1

蓼の花↑

 11月号特集の記事の資料調べのために、俳句文学館に行った。

 いつも、どなたかにお会いするのだが、今日は、中嶋鬼谷氏と髙柳克弘氏、神野紗希氏にお会いした。

 髙柳氏には、11月号「元気な結社に名編集長あり」(仮題)の座談会にも出席していただいたので、そろそろ担当者より著者校正がFAXされると思いますのでよろしく御願いします、と挨拶させていただいた。

 ちなみに今日の編集部、編集長・林は、京急横須賀線の脱線事故で通うのに3時間かかるといいながら、「ランブル」(主宰・上田日差子)の祝賀会に出かけて行き、くだんの交通事情で自宅には帰らずに、会社で仕事をするために帰社すると言い残していった。

 また、スタッフ松本は「文字のないエッセイ」の打ち合わせで出かけている。

ケイトウ↓

ケイトウvol.1

 閑話休題・・

 飯田龍太の「一月の川一月の谷の中」の句についての思い出など・・

この句が発表されたのは、1969(昭和44)年2月号の「俳句」(1月25日発売であろう)である。

「明るい谷間」と題された30句の巻頭に置かれた句だった。

そして、すぐの2月17日付け讀賣新聞夕刊の時評「俳壇」で高柳重信が取り上げたのだ。

たぶん、この句をおおやけの場で批評したのは重信が一番最初だったと思われる。

しかし、「一月の句」は、重信以外は、その後、数ヶ月、各誌の俳句総合誌の句評などにもまったく取り上げられなかった(同時発表の他の句は取り上げられたけれども・・・)。

遠い昔のことだから、と図書館に行き、改めて、讀賣新聞を縮刷版で読んだ。

それには

  まず、飯田竜太句集「忘音」の読売文学賞受賞に、心から祝意を表したい。屈指の同世代作家であ 

 る金子兜太の「蜿蜿」も同年の発行だが、これは候補にのぼらなかったらしい。従来、読売文学賞を

 受賞した句集にくらべると、まだ十分なまぐささが横溢していて、なんとなく旧例にそぐわない感じが 

 する。そこへいくと飯田の作品は、こんど候補にのぼった「原石鼎句集」や富安風生の「傘寿以後」と

 くらべても、あまりちぐはぐな感じはない。そのうえ年齢的な若さの力が加わるから、いっそうめだって

 くる。「俳句」二月号に発表された「明るい谷間」(30句)の第一句「一月の川一月の谷の中」は、目下

 の境地を的確に現わしているといえよう。

 と書かれているが、句の評価についてはこれ以上のことは触れられていない。

 その後、この句は毀誉褒貶にさらされるが、今では賛成するにしろ、反対するにしろ飯田龍太の代表句であることについて、大きな異議はないだろう。

 実は愚生がなぜ、この句を発表時に記憶したかと言えば、69年2月という季節が関係している。いまは伝説となってしまった東大安田講堂闘争が1月18日に闘われてすぐの時期と重なっているからでもある。

 愚生は京都にいて、その雑誌「俳句」を持参して、先輩の俳人・さとう野火、城貴代実宅(食事も含め、どれだけお世話になったかわからない)で、「一月の谷」の句が、どれほど素晴らしいか言い募ったのだと思う。その内容はすでに忘却の彼方にあるが、しばらくして、愚生は、まともな生活もできないまま、都落して東京にあてなく流れた。

そして、まだ、健在だった草田男の「萬緑」、沢木欣一の「風」、また「石楠」の句会などに出かけた。

 あるとき、「俳句研究社」に電話をして、愚生のようなものが参加できるような句会はないかと尋ねたら、十数人の小さな句会だが、きてもいいというので、訪ねて行った句会が代々木上原の「俳句評論」の句会だった。

 もっとも若輩だった愚生は、句会の終わったあと、近くの「俳句評論」発行所に、澤好摩、横山康夫に連れられて、一緒に行った。そこで、初めて高柳重信に自己紹介をした。思えば、重信もまだ40歳代後半くらいだったのではないだろうか。

 愚生は結局「俳句評論」にも入らず、その回りをうろついていたにすぎないが、御蔭で、三谷昭、三橋敏雄、高屋窓秋、折笠美秋、寺田澄史、中村苑子、福田葉子、津沢マサ子、高橋龍、太田紫苑、三橋孝子、また、加藤郁乎、山本紫黄、松崎豊、大岡頌司など、挙げ切れない、実に多くの方々の聲咳に接する機会を与えられた。感謝のほかはない。

 それもこれももう40年以上前のことになってしまった。

ヤブラン?↓

ヤブランvol.1

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