2012年10月17日

美濃派獅子門41世・大野鵠士氏・・・

大野鵠士 大垣vol.1

        赤富士や言葉は白き矢と化して       鵠士 

 昨日16日(火)は、12月号「私の一冊」グラビア撮影のために、大野鵠士氏(「獅子吼」主宰)を大垣市に訪ねた。

前日の夜にカメラマン氏と現地に入って泊まり、午前中にカメラマン氏と散歩がてら、撮影スポットを探した。

大垣市は「芭蕉奥の細道結びの地」として、記念館に船町港跡と住吉燈台を保存して観光地になっているようだ。

大野鵠士 大垣vol.2

 題簽「おくのほ道」の文字もすれてかすんでいる↑

 大野鵠士氏の「私の一冊」が『おくのほそ道』(寛政元年 井筒屋・橘屋刊)だったので、撮影の合間に、その理由を尋ねたりした。

第一に、なんと言っても支考の師は芭蕉であるということ。

聞けば、獅子門では芭蕉を祖師と呼び、支考を師祖とよんでいるとのことだった。

芭蕉忌は、獅子門の各支社でも行われるが、支考忌だけは本部のみだそうだ。

追善興行のためにほぼ年間のスケジュールが決ってしまうようだ。

芭蕉は36句連ねる三六歌仙をこのみ、支考は24句を続ける「短歌行」を創始し、表合わせ8句というのも考案したという。

俳諧とは、興行を行うという芸能的な側面があり、連句を興行するさいのマナーや心得をしっかり伝え遺していきたいということだった。一定の作法、句を書き留める懐紙の書き方、懐紙を載せる文台の大きさ、また席の正面には芭蕉木像、背後の壁に菅原道真(天神)像、支考像の軸を掛けたり、香を焚いたりなど伝承されているとのことであった。こうした正式の進行は四世・田中五竹坊あたりで、ほぼ確立されていたという。こうしたもろろもろが口伝で道統に伝え遺されてきているのだ。

芭蕉は大垣に三度きているとのことだが、それは、廻船問屋の谷木因(たに ぼくいん)を訪ね滞在していたとのことだ。

大野氏との口伝という言葉から、剣道でも古流には口伝があって、新陰流(愚生も30歳代で10年位)の話題になり、大野氏の父上が柳生新陰流20世の柳生厳長師に師事しておられたと聞き、実は愚生の東京での転会(まろばしかい)の渡辺忠成先生はその厳長先生(老先生といっていた)に学ばれていたことがあるとお話しして、お互いに驚き感激した。

大野鵠士 大垣vol.3

 獅子門とは、蕉門十哲のひとり、各務支考の別号・獅子老人にちなんだ呼称で、大野氏は道統41世の宗匠を受け継ぎ、美濃派俳諧の始祖といわれた支考の流れを現在にまで伝え、俳句と連句を創作し、芭蕉忌、支考忌にはこれまで伝承されてきた正式(しょうしき)俳諧の追善興行を行っておられる。

また、美濃派には、まだまだ顕彰されていい女性の江戸時代の俳諧師・田上菊舎、加賀千代女、哥川(かせん)などもいるとお話されていた。

大野鵠士 大垣vol.4

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赤と白の曼珠沙華は見た事がありますが黄色は初めてです。

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