2012年11月19日

富澤赤黄男・西東三鬼没後50年の集い・・・

高橋龍氏

高橋龍氏↑

三橋孝子氏(三橋敏雄夫人)

 三橋孝子氏(三橋敏雄夫人)↑

 一昨日、11月17日(土)、東京ガス四谷クラブに於て、「富澤赤黄男・西東三鬼没後50年の集い」が開催された。

司会進行は澤好摩氏。参加者は約50名。

 中でも、若くして三鬼の弟子であり、三鬼主宰誌「断崖」同人だった三橋孝子氏が、三鬼の最期の病床の見舞いで、そこに集まっていた俳人たちが、「赤黄男が死んだよ、死んだよ、でも、内緒にしておこうね」と囁きあっていたことと、そのとき、初めて三鬼と赤黄男が親友だったことを知ったと思い出を語られていた。

 赤黄男が亡くなったのは昭和37年3月7日、享年59.それに遅れることわずかの4月1日には三鬼が亡くなった。享年61.

 髙柳重信はその二人の死によって、これで新興俳句は終わったと言ったらしいが、事実はその後に高屋窓秋の作品の復活発表、渡辺白泉も作品を書き残している。

 重信宅(「俳句評論」発行所)には「三鬼のベッド」と呼ばれたソファーもあった。三鬼が東京に来るとそこで眠り、よく泊まっていった。

 ともあれ、こういう集いの会をひらいて、彼ら二人が残した俳句に対する業績を、ときには思い出し、その業績が忘れ去られることのないようにするのも、残された者の俳句形式への務めではないかという高橋龍氏の発案による。

 氏の話のなかで、来年は重信没後30年、志摩聰・大岡頌司没後10年、回忌でいくと三橋敏雄13回忌、山本紫黄7回忌であること。

 赤黄男・三鬼の俳句生活はほぼ25年間、赤黄男・三鬼がその25年間に俳句形式に成し遂げたことと、自らを省みて、はたして25年間で何をなしえたのかを考えてみるきっかけにしていただきたい、と述べ、かつて新興俳句と呼ばれたのは昭和10年頃から権力によって弾圧される昭和15年までのわずか5年間、そのおりに詩ではその期間は中原中也、立原道造、小説では横光利一が活躍していた時代

、つまり新興俳句の置かれていた外側の状況にも目を配ってみるのも必要ではないかと締め括った。

参加者は主に群馬から林桂「鬣」の同人諸兄、鳴戸奈菜「らん」の諸兄姉、志賀康「LOTUS」、高原耕治「未定」、澤好摩「円錐」、また「面」「豈」の同諸兄、歌人でただ一人、江田浩司。

    あはれこの瓦礫の都 冬の虹    赤黄男

    寒灯の一つ一つよ国敗れ       三鬼

赤黄男・三鬼没後50年の集い

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