2012年12月26日

2月号入稿・&『層雲の道』・・・

ハゼの実と小鳥vol.1

ハゼの実と小鳥↑

 今日は、本誌2月号の印刷所入稿日。大詰めを迎えつつあるというところ。

年末年始の休日のしわ寄せ日程なのだ。

愚生は、残すところ編集後記を書くこと。

何を書けばいいのか、まったく思い浮かばない。嗚呼・・・

層雲の道vol.1

 閑話休題・・・

昼休みに馬場口から早稲田方面に坂を下りきったあたりの古本屋の店頭で陽にやけた50円均一本があった。

その中に、『「層雲の道」荻原井泉水述』なる薄っぺらな本があったので、躊躇なく買った。

発行は昭和48年2月、150円、層雲社刊である。

層雲叢書とあって、「層雲の道―大正、昭和(初期)の人々―」。

取り上げられている作家は野村朱鱗洞、尾崎放哉、大橋裸木、種田山頭火の4名。

その序説に以下の部分がある。

   「俳句」の道にあっては「作品」と「人間」ということは離して考えられない。そこに「一行詩」とは  

 おのずから違うところの「俳句」というものがある。(中略)

  大正七年(一九一八)から昭和十五年(一九四〇)まで、、約二十二年間―此の間は層雲の道として 

 も、初期の興隆期と開花期とに当っている。

 そうなのである。今年、本誌では大正100年企画で、知られざる大正期の俳人特集を三回やったが、そのおりに読んだ句集や俳壇的な時代の様相は、少なくとも大正期に限っては、文字通り自由律俳句の時代だった、という印象だった。

 かの「ホトトギス」の大正黄金俳句と喧伝されている石鼎、普羅、蛇笏、鬼城の時代というのは、正確にいえば、もう少し後のことであり、むしろ、大正時代は碧梧桐の新傾向俳句から、自由律俳句へ雪崩れをうっているのだった。

知らない内にホントの俳句史は書きかえられているのか、教科書的に、そう信じ込んでいるふしがある。

 それは、大正元年に虚子が俳檀復帰して、いまだ俳壇を領導するには、日が浅く、しばらく時間がかかったということだったのではなかろうか。高野素十がホトトギス巻頭を得るのも大正15年・昭和元年のことだ。

 それにしても、その後の自由律俳句の衰退は、山頭火、戦後の住宅顕信などごくわずかの俳人を残すのみで、潰えた感じが否めないのは、なんとも残念なことではなかろうか。

少なくとも、ここに自由律俳句がある!ともっと明らかににしてもらいたいのは愚生ばかりではないと思うのだが・・

   かゞやきのきわみ白浪のうちかえし         朱鱗洞

   せきをしてもひとり                     放哉

   陽(ひ)へ病む                        裸木

   おちついて死ねそうな草枯るる            山頭火

井泉水は言う。

   山頭火の句は、甚だむぞうさ(傍点あり)で口をついて出た言葉そのまま(傍点あり)のように見える

 けれども、実は決してそうではなく、一つの俳句作品として完成している。このことを私たちは「一句

 一律」と称する。一句は一句違うごとにその句としての律(リズム)をもつということ。それゆえにこそ、

 彼は自由律の俳句作家なのである。

そう、一句ごとにフォルムが違うのだ。これほど困難な道もなかろう。

多くの俳句作家が五・七・五の鋳型に言葉を流し込んで、自動記述に近いパフォーマンスをしているのとは違うのだ。

キク↓

菊.jpg

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コメント(2)

  

一息を尽く暇もありませんね。

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