2013年5月のブログ記事

2013年5月30日

福島せいぎ句集『遊戯』・・

福島せいぎ句集『遊戯』vol.1

 「遊戯」は、仏典や荘子に倣って「ゆげ」と読ませるのだそうである。

著者「あとがき」によると「本来『遊戯』は『遊び戯れること』であるが、人生は楽しむべきものだと思っている。七十歳を過ぎてから、晩年を意識するようになったが、反面、人生前無向きに、夢に向かって生きたいとも思うようになった」とある。

僧職にあるとはいえ、見事な心栄えである。

   かづら橋揺るる高みを梅雨の蝶   せいぎ

   山門の閂固し蝉しぐれ

      わが家に落雷あり

   落雷に腰を浮かせし観世音

   父の胸うすくなりたり天瓜粉

   死ぬものにむらがる赤き山の蟻

 

福島せいぎは「なると」主宰にして「万象」(主宰・大坪景章)同人。「なると」の初代は森龍子、沢木欣一を師系とする結社で、1975年(昭和50)に創刊され今年5月号で400号を迎える。沢木欣一の「即物具象」の理念が生きている雑誌のひとつだろう。

『遊戯』はすでにせいぎ氏の第七句集、平成20~24年までの5年間、自選300句、主宰誌400号記念出版でもある。せいぎ俳句は「私たちが忘れがちな『笑い』を大切にしている。そこから感じられてくる『あはれ』がある」とは大坪景章氏の評である。

ともあれ、最後に愚生の好みに触れた句をあげておきたい。

   元日の晴れて大きな人の影

   ひろしまの戻る寒さを妻とゐる

   箱廻しねぎらふ雪の楮小屋

   熱き湯をかけて包丁始めかな

   ふらここを負けず嫌ひの姉妹漕ぐ

     四月十八日母の命日なれば

   父に会ひ母に会へざる春の夢

   としこのに踊り出すなり生身魂

   となめして空を流るる赤とんぼ  

アジサイ↓

あじさい.jpg

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2013年5月27日

「岳」35周年記念大会・・・

「岳」35周年記念大会vol.1

 新緑鮮やかな5月25日(土)、軽井沢プリンスホテルに於て「岳」35周年記念大会が開催された。

記念講演はノンフィクション作家で評論家の柳田邦男氏「ことばと生きなおす力」。

パネルディスカッションは、講演の柳田邦男氏を加えて、小島ゆかり(歌人)、いせひでこ(画家・絵本作家)、宇多喜代子、宮坂静生の各氏を入れてコーディネーターは小林貴子氏。「3.11以後」の言葉、表現について語り合われた。

祝賀パーティーには全国から参じられた「岳」の方々と、多くの来賓で500名以上の席が埋まった。

パーティの司会はパネルディスカッションから連投で小林貴子氏と有手勉氏。

開会のことばは折井真琴氏。続けて園城寺龍氏による宮沢賢治「永訣の朝」、岩井かりん氏の宮坂静生「吉事(よごと)」20句、金子圭子氏によるいせひでこ「二本の桜」のそれぞれの朗読が行われた。

     「岳」三十五周年自祝

   葉櫻に吉事(よごと)の雪を賜りし       静生

来賓の祝辞には、大串章、宇多喜代子、片山由美子各氏に続いて、星野高士氏はじめ乾杯のシャンペンの栓抜きが14名氏によって開かれた(下の写真↓)。

歓談のなかでNHKアナウンサー石井かおる氏や櫂未知子氏などの祝辞もあった。

パーティーの最期は若林圭子氏のシャンソンの夕べで堪能した。

終わりのことばは、宮沢賢治研究会もなさっている佐藤映二(栄二)氏。

「岳」35周年記念大会vol.2

 閑話休題・・

祝賀会には林編集長とともに参加したのだが、愚生のテーブルのメンバーは、沖縄から玉城一香氏と一緒に神谷石峰氏、右隣には、前回「岳」30周年の折に、翌日「突然軽井沢吟行」に一緒になり、筑紫磐井の題詠句会でもお合いした中西夕紀氏、そして、神野紗希、遠山陽子、宗田安正、鳥居真里子の各氏だった。

歓談の機会に大串章氏に「京大俳句」について少し伺ったが、大串氏や竹中宏氏、故髙木智氏故中谷寛章氏が参加されていた当時の「京大俳句」は自身で第4次「京大俳句」と称されていたということだった。

そして、第三次に連続して、続いていたと思っていた上野ちづこ、江里昭彦、久保田耕平各氏などの「京大俳句」は正確にはどうも第四次もしくは第五次と呼ぶのが相応しいにかも知れない。

ということは、現在再建されている「京大俳句」は正確にいうと第5次もしくは第6次「京大俳句」ということになる。

つまり、我々のよく話題にする新興俳句弾圧事件の世にいう「京大俳句事件」は第一次「京大俳句」として壊滅、そして敗戦直後に行われていた泉田秋碩氏の京大俳句会は第二次ということになる。

そして、そのほかに「京大俳句」という雑誌を発行することなく存在した「京大俳句会」が何次かあったのかも知れない。

とにかく、一度関係者によって正確な「京大俳句」の歴史を書き留めてもらいたいものだ。

 もう一つのエピソードは、宇多喜代子氏と歓談のとき、今月6月号の本誌・魅惑の俳人「攝津幸彦」の夫人資子さんのインタビューで幸彦の母が「俳句」を辞めるように伝言されていたということについて、「最初は幸彦に俳句を勧めたのは母・よしこさんよ。そのときは幸彦が映画監督をやりたかったので、映画の世界に入るのは反対だったから、お母さんが俳句を勧めたのだが、幸彦が俳句の世界に入ってからは反対した」ということ(実際に俳句に誘いいれたのは伊丹啓子氏だったが)。

確かに親としては、少しでも安定した職業についてもらって、生活を安定させてほしいと思うのは当然といえば当然。しかし、大学を卒業して、無事、旭通信社に就職してからは、仕事がおろそかになってはいけないと俳句をやめさせるように資子さんに零していたということだろう。

ブラシの木↓

ブラシの木vol.1

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2013年5月24日

平早 勉氏来社・・・

平早氏来社vol.1

「世界の元気」vol.2

 明日発売の6月号「文字のないエッセイ」-「世界の元気」で世界の子どもたちの元気な写真が掲載されている。その写真を撮られた平早勉氏(写真家・ジャーナリスト)が昼過ぎに来社された。

スタッフ近藤の知り合いということもあって、写真集の制作についての相談も受けた。

実は、これは全く偶然の出会いなのだが、6月号の特集で「壮絶な最期とその句集」の『銀河蒼茫』の著者野村秋介の写真を数多く撮られたのが平早氏であった。書名は忘れたが、新宿ゴールデン街「がルカンチュア」での野村秋介の写真のときは、隣に中上健次がいたのだという。

愚生はその店で、20歳をいくつも出ていない頃、京都から東京に来て間もないころのこと、数年前に亡くなった牧田吉明とA氏(牧田氏に野村氏に紹介した人物)に会っているはずという記憶が甦ってきたので、当時の数人の消息などを尋ねたのだが、共通の人が何人もいた。また、俳句では、来空氏や、野谷真治氏とも懇意だということで、これも縁とは不思議なものだと感じ入ったのだ。コワイ・・コワイ・・・

ともあれ、平早氏とはまさに同年生まれ、同じ時代を愚生はかなり自堕落に、俳句にウツツを抜かし、彼は世界を股にかけて写真とペンを手に生き抜いてきたらしいことが分った。

帰りに、「小劇場への誘い」という連載をしていると言われ、その雑誌「街から」NO、120をいただいた。その記事には「寺山修司没後30年」を記念すべき「寺山修司『街頭劇』の復活」と題されていた。ということは今年は髙柳重信没後30年でもあるのだ。5月に修司、7月に重信は逝ったのだった。愚生の旧作に、

     五月修司七月重信逝ける空はも      恒行

咲き始めたアジサイ↓

咲き始めたアジサイvol.5

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2013年5月23日

青柳志解樹句集『里山』・・・

青柳志解樹句集『里山』

     里山の朝のひかりは木の芽より  志解樹

『里山』は青柳志解樹の第13句集である。

平成19年2月から21年12月までの三百句を収める。

「里山」の命名は、

  「里山」ほど気の休まるところは、私にはない。

という著者「あとがき」にあるとおり、「いっそ東京を捨てて、この山国の自然に抱かれた暮らしがしてみたい」とも記されている。

   花杏信濃森林(もりむら)昏れ知らず   

「森林」を「もりむら」と読ませるなどは手が込んでいる。

   打ち揃ひたるはくれんの蕾かな

   うららかや子豚十頭さくらいろ

   初蝶を海の光がさらひたる

   水が水追うて三月来たりけり

   老鶯は京子京子と囃しけり

     岩手・宮城内陸地震  

   生れたる蝉にも余震ありにけり

   チユンチユン雀チョンチョン雀台風過

 など、佳句、秀句、さらに俳諧味のある句などまさに自在な境地を感じさせる。  

   晴女来る家持の桃の花

 「家持の桃の花」というのもなかなか味わい深い。大伴家持は万葉集の成立に深く関わったとされる人物で、万葉集中の歌数も多い。桃の花は「春の苑(その) 紅(くれなゐ)にほふ桃の花、下照る道に 出で立つ娘子(をとめ)」を踏まえており、「晴女」は「娘子」でもあろう。

   山法師咲く牧水の越えし山

の句も、前句に倣えば、牧水の高名な歌「幾山河(いくやまかは)越えさり行かば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく」を思い起す。

 牧水と言えば酒の歌も忘れられない(愚生のごとき下戸にしても・・だ)。

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」・・・。

しかし、青柳志解樹も酒仙に近い。本句集も捨てがたい酒のの句が目白押しである。

   信濃小梅の塩漬カリと酒を欲る 

    白川郷どぶろく祭

   祭終ればどぶろくを持てあます

   年酒酌む大黒柱いまもあり

   透きとほる酒なみなみと霜夜かな

   灯火親し即ち酒を酌みにけ

  極めつけは、

   島田宿おんな泣かせといふ新酒    

「おんな泣かせ」の蔵元は静岡・島田市の大村屋酒造場(天保3年創業)。女性の方にお勧めの逸品らしい。

十薬↓

十薬vol.1

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2013年5月21日

田中陽句集『ある叙事詩』・・

田中陽句集『ある叙事詩』

  みんな加害者八月の蝉がシャッと去る      陽

  だれが死んでもおどろかない おれが死んでも

  テレビの空襲サイレン一歳児が抱きついてきた

  五七五などぼくを癒さずさくら散る

  墓の蓋あけてひかりを入れる何か言ったか

 『ある叙事詩』は『傷』『愉しい敵』に続く田中陽の第3句集である。

1989年~2002年、14年間の田中陽の句業を収めている。

つまり、田中陽の50歳代後半から60歳代後半まで。

従って、近10年間の田中陽の句業については、もう一本の句集が必要なのである。

そして、いずれ著されるであろうもう一本の句集については、本句集の「あとがき」に、すでに、抱負が語られている。

  〈3.11以後の俳句〉を戦後俳句の延長線上にテーマ化している僕自身、(中略)

 このテーマは、被災句を書くとか、書かないといったこと以上に俳句革新の根源の問  

 題を孕んでいるのです。僕は昭和一桁後期の生まれ(平成天皇と全く同じ)、いわゆる

 疎開学童世代に9属します。敗戦と今回の「3.11」は体験を超えて"思考〟として 

 受け止め、この"二つ〟を重大なるものとして、俳句という自己表現の底に埋めてお

 きたいと考えています

 田中陽の句は、いわゆる口語俳句と呼ばれているが、口語俳句の呼称が定着するのは戦後市川一男らが唱導した「今日以後の俳句は文語ではなく、口語でつくるべきだ」という口語俳句運動によっている。その市川一男が創刊した「口語俳句」は、その後、まつもとかずやに継承されたが、77年150号を持って終刊している。現在、田中陽は「主流」の代表を勤め、かつ口語俳句協会の幹事長も勤め多忙を極めている。そしていま、彼の想いとはべつに、日本は戦争の出来る国家に大きく踏み出そうとしている。愚かなるナショナリズム、「国益」などという言説が日常的に飛び交う現状こそは、真に「国益」につながるものではない。関東大震災直後に、大杉栄、伊藤野枝、甥の橘宗一ばかりでなく、どさくさにまぎれて、多くの反軍を唱えた人々は当局が流したであろう流言蜚語によって虐殺された。それこそが、世が大正デモクラシーを謳歌していた時代の一方で行われた「国益」を大声で怒鳴り散らした結果だったことを思い起す必要がある。

 それが、まぎれもなく田中陽が「敗戦と『3・11』は体験を『超えて"思考〟」をめぐらしていることなのではなかろうか。

 ともあれ、最後に僕の好みに偏したいくつかの句を上げておきたい。

    共産党という保守窓に枯木が鳴りどうし

    一生懸命書くとひかりは薔薇から来

 「一生懸命」は「一所懸命」にしてほしいが・・・・

    俺が老いるとは嘘のようだが老いている

    かなしみは苦しみハッと月に遭う 

 「ハッと」は田中波月の「波」=「ハ」だよね~きっと・・そうすとると月もピッタリ。

    喪を引きずっている元日のわが影よ

    下着どれにもヨウと書いてある・替える

ホタルブクロ↓

ホタルブクロvol.1

・閑話休題

本日の昼休みに古書店文省堂が今月末に閉店となり、すべての文庫本が100円というので、いくつか目に付いたものを買った。

レイ・ブラッドべりは、髙柳重信の逝去後、蔵書の整理に行った人から、レイ・ブラッドべりの本が重信の書棚に並んでいたと聞いていたのと、攝津幸彦最後の句集名(予定されていた)「四五一句」が、ブラッドベリの紙が燃え出す温度「華氏451」のものだということだったことによる。

それよりも、ついでに岩波文庫『日本唱歌集』を買ったら、そのなかに唱歌とは似つかない「蒙古放浪歌」の歌詞を立派な文字で書かれた紙が折りたたまれて挟まれていたことだった。

以下にその筆跡を掲載して置く↓(これって痕跡本の一種にあたるのかなあ・・)。

岩波文庫『日本唱歌集』vol.2>

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2013年5月20日

卒寿記念・村越化石自選句集『籠枕』・・・

句集『籠枕』vol.1

 本句集は、村越化石の既刊句集、『獨眼』『山國抄』『端坐』『筒鳥』『石と杖』『八十八夜』『蛍袋』『八十路』『団扇』9句集から、化石自身が」選んだ句、しかも句集『獨眼』以前に詠まれた、句集未収録句と、さらに『団扇』以後に詠んだ(平成24年9月まで)句、900余句が収められた、文字通り、村越化石の来し方のおおよそが眼前にもたらされる、宝の一本である。

その句集以前の巻頭句は(昭和15年)、

    雲海に大気養ふ登山かな

 詞書に「子供の頃、『六根清浄』と唱えながら、一歩一歩山の麓から登った富士山は、信仰のお山であった。この句が思いもかけず選者の高得点の天位に選ばれた。祭りの行灯にも大きく書かれた。皆からは『俳句少年現る』などと言われた」とある。他の句もあげておこう。

    春霜や石楠花ひしと葉を張れり

    人の死をうらやみすする寒卵

    踊らざる人ら銀河に暗く居り

口絵写真↓

口絵写真vol.1

 村越化石は、1922年(大正11)12月17日、静岡県岡部町に生まれた。本名、英彦。38年(昭和13)ハンセン病のため旧制中学を中退、離郷。東京、草津湯ノ沢などの病人宿を経て、41年国立療養所栗生楽泉園に入園、同年奈美と結婚。「鴫野」主宰・本田一杉(いっさん)の指導を受け、「栗の花」句会(高原俳句会)の先輩だった浅香甲陽の影響を受け、49年「濱」の大野林火に入会師事した。70年、失明。74年『山國抄』で第14回俳人協会賞、83年『端坐』で第17回蛇笏賞、89年『筒鳥』で第4回詩歌文学館賞、2007年第8回山本健吉文学賞を受賞。

   子規は眼を失はざりき火取虫    甲陽 

   秋の蛇岩を濡らしてかくれけり    一杉

   ねむりても旅の花火の胸にひらく   林火

村越化石の最近の事情について、三浦晴子は、跋の中で、愛情あふれる筆致で、次のよう記している。

   この句集出版に際しては、化石先生の平成二十一年十一月の心不全による入  

 院、その後八ヶ月に及ぶ病棟での闘病生活の中での編集であり、並々ならぬご決意 

 であったと思う。(中略)作家としての真の勇気、精神の潔さ、尽きることのない強靭な

 詩魂を思い、ただただ頭を垂れるばかりである。両眼の光を失い、両手の自由を奪わ

 れ、最近では健やかであった聴力すらもその力を弱めつつある。そのような状況の中 

 で、一言の不平も言わず、不満も洩らさず、笑顔で「大丈夫だよ」と言い、「俳句が沢

 山出来るんだよ」と嬉しそうに言われ、時を惜しむようにひたすら句作に励まれる化石

 先生。ラジオも聴けない、たった一人の光のない殺風景なベッドの上で、一心に句作

 を続けられる化石先生の姿に、心が震えた。化石先生のそうした姿の中に、作家とし

 ての真の姿を見た思いがした。これが俳句を作ることなんだと教えられた。

句集口絵より↓

口絵写真vol.2

 『団扇』以後の句から(平成22年~24年9月)、

     啓蟄の地を激震の走りたり

     籠枕手枕の時移りゆく

     暗がりに生きて団扇を使ひをり

     今日も会ひ明日もまた会ふ天高し

     楽しさは裏道にあり枯木星

       晴子さんの話をそのまま句にして

     化石碑をめぐる子らゐてこどもの日

     園歌流れ賛美歌流れ籠枕

     死に遅れしか生き残りしか籠枕

、    言うべきを言うて果てしか終戦忌

 まだまだ、多くの句を上げたいところだが、直接御手にとられることを願って、 最後に第一句集『獨眼』より、いくつかを挙げておこう。

     除夜の湯に肌触れあへり生くるべし

       除夜だから、明日への希望もまた。私の代表作。

     湯豆腐に命儲けの涙かも

       新薬プロミンの恩恵に浴し数年を経たれば

     麦秋の妻子を生かす癩の銭

       わづかの作業賃を貯め故郷へ仕送りする人のあり

     蘇る手がふところに大寒なり

       癩性後遺症に施す整形手術可能となる

     花栗や癩障害に銭たまひ

       福祉年金受く

ジャガイモの花↓

ジャガイモの花vol.1

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2013年5月17日

西池冬扇氏来社・・・

 

西池氏.jpg

「ひまわり」主宰・西池冬扇氏が昼過ぎに来社された。

折悪しく編集長・林は出ており、愚生も昼時で留守・・・

いつもは軽めの蕎麦だが(本日に限ってがっちり定食を食べにでていた)、社からの電話で、とりあえず、帰社して、近くの喫茶店にてお話をした。

聞けば、明日は「ひまわり」東京句会で、毎月、徳島から上京され、句会指導をされているとのことだった。まして、来る今月26日(日)には「ひまわり」800号記念祝賀会を開催されるという。

「ひまわり」は昭和21年高井北杜らが創刊。師系は臼田亜浪・角川源義。表記は現代仮名遣いで、やさしく、たのしい庶民の詩を標榜している。

      門灯を消し忘れたり春の雪     冬扇

      春陰に根付の鬼が舌を出す

ピラカンサスの花↓

ピラカンサスの花vol.1

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2013年5月16日

間村俊一版下ガラパゴス・・・

間村俊一版下ガラパゴスvol.1

 昨日、愚生は(休みをいただいて)、この際にと医者めぐりに整骨院・・ようするに体のメンテナンスに一日を費やした。

朝10時半に家を出て帰宅したのが、夜8時だから文字通り1日・・・

口惜しかったのは、どういうわけか、ある薬を培の量、処方されることになったこと。

(たぶん、愚生が嫌がって、あまりに軽い量の薬だったので、瞬く間に耐性ができたせいだ・・たく~)

その医者めぐりの合間に、渋谷・「ウィリアム モリス」珈琲&ギャラリーで開催中の「間村俊一版下ガラパゴス」に行った。

     初夏の版下あはれ書物果つ      俊一

間村俊一は現出版界の装丁家としては、いまだにがんこに写植の版下にこだわっている珍しい、文字通り世界自然遺産ガラパゴスなのである(かつて無人島のこの島は海賊の隠れ家だったらしい)。

また、結社には属さず、知る人ぞ知るリッパな俳人である。

句作は学生時代、加藤郁乎や塚本邦雄の書に出会い、始めたというから句歴も充分に古い。

句集『鶴の鬱』はもちろん自身の装丁による。

    天上に瀧見しことや鶴の鬱        俊一

    人妻にうしろまへある夕立かな 

    ポエジーは五反田にあり豆の花

小社刊の角川春樹『夕鶴忌』も飾られていた。

間村俊一版下ガラパゴスvol.2

 

・閑話休題。間村氏はたぶん忘れていると思うが、愚生が最初に彼と会ったのは、福島泰樹が季刊「月光」を出していた頃、たぶん二十年くらい前だと思うが、その広告版下を(「俳句空間」へ掲載の)受け取りに、当時、飯田橋近くの事務所に伺ったときであると思う。当時40歳代であった愚生は、福島泰樹編集の「月光」や「早稲田文学」には俳句作品を数回寄稿させていたただいたこともあるが、いまやすでに、のぞきからくりの世界のようになっている。

 讃・「胸中に鶴を飼いたり鶴の鬱」 恒行  

間村俊一版下ガラパゴスvol.3

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2013年5月14日

久光良一『走り雨』・・・

『走り雨』vol.1

   すっかり葉を落し 風に話している     良一

自由律俳句の句集である。

   生きるのを楽しむ朝のいも粥吹いて喰う

いわゆる伝統派の俳人はよく、「自由律は一行詩のようなもので、それなら俳句といわずに詩を作ればいい」と言う。いうなれば排除の論理が垣間見えるものだ。

いずれにしても、どなたが言ったかわすれたが、俳句という同じ土俵ながら、どこか異種格闘技という感じすらする定型俳句と自由律俳句。

荻原井泉水は「『俳句は日本的な短い形をもつ文学だ』ということは今日の通年になっている」(『層雲の道』昭和48年二月・層雲社刊)と述べ、続けて「単に『日本的の短い形をもった文学』とし第一歩から出直さなくてはいけない。これが私が『新しい俳句』を主張した時に提唱したことである。それと共に『俳句』は単に『短い形をもつ文学』としてではなく、そのうしろに芭蕉の云うところの『風雅』の精神というものを持たなくてはいけない。先ずこの精神を体得する。それを体得したところの心がことば(・・・傍点あり)となる。そこに一種の『修行』というものがある。(中略)この心境的なものを察知することなくして、単に『俳句は短い形をもった文学』だとののみ理解するならば、たとえ、それが『約束文学』を離れたる自由の律をもった形式なっていたところで、それは西洋的な『詩』の一種の文学であって、それを『俳句』という名の詩と呼ぶことはできない」と記している。

今日の社会的状況は、「非定型で季題の有無にこだわらない俳句」、つまり自由律俳句の拡大の素地は充分に存在していると思われるのだが、多くは定型の秩序のなかに安易に陶酔する俳句を日々量産し、現実はそのような安穏な事態を許してくれないはずであるのに、一日でも多くその惰眠をむさぼっていたいという心情(愚生がそうなのだが・・)を含めて、ひたすら延命を希望しているようなのである。

いずれにしても、今は数少ない自由律俳句のテキストとして久光良一の句群がもたらされたのだから、歓迎しなければならない。

略歴によると、久光良一は1935年朝鮮平安道安州邑生まれ。俳句は92年、山頭火に縁のあった江良碧松の「周防一夜会」に入会した。従って約20年の句業の成果がこの句集に収められていることになる。

 せっかくだから江良碧松の句を少し挙げておこう(『層雲自由律90年作品史』・2004年刊より)。

   菊手入も霧の朝児は登校す        碧松(明治45)

   よべの火事あはれ道の辺初午に         (大正2)

   濁流の轟き傘借りて葉書買ひに出し       (大正4)

   朝日うちさばきうちさばき稲刈る          (大正5)

   牛が汗して鋤く田の土の黄な冬日         (大正6)

   児に噛んでやる餅よく噛むほどに甘し       (大正8年)

ともあれ、大正時代はあたかもホトトギスの石鼎、普羅、鬼城などが全盛のごとく挙げられるが(後世の捏造にちかい)、じつは新傾向から自由律俳句の盛んな時代であった。なにしろ、世は、短期間とはいえ、大正デモクラシーの華やかで自由な風が満ちていたのだから。

話しを元に戻して、久光良一の皮肉めいた諧謔の句は、

   平和ボケでいいボケに徹して生きる

   生き方は変えられぬいつもの角まがる

   いつかぷつんと切れるそれまでの糸つむぐ

   スローライフのつもりがあっけない入日だ

若干のニヒルな感じもある。

日常的なリアルな句も、

   鳴きしきる蝉 点滴が母につながれている

   今日もガンバローと拳つきあげて笑う妻

ここにはそうせざるをえない妻の姿も映し出されていよう。悲哀も伺える。

最後に、詩情に隠された何かを感じさせら句を上げさせていただきたい。

   根のないわたしが根のある草をひき抜く

   かげも手をふっていった

   窓 一人ぶんの孤独がある

   春 虫いっぴきの背に乗るだけの春である

   ぶらんこ揺らしてわたしの時間まだ少しある

   踏まれて踏まれて道になった道である

トチ(マロニエ)の花↓

トチ(マロニエ)の花vol.1

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2013年5月13日

八田木枯追悼展・・・

八田木枯追悼展vol.1

 ギャラリー晩紅舎・八田木枯追悼展〈5月15日(水)まで〉を訪ねた。

今回の展覧会をもって閉廊するとのことである。

廊では、3月30に行われた京都一燈園の句碑開きのスライドも流されていた。

句碑除幕式に参加された俳人の方々による吟行会の短冊も陳列されていた。↓

八田木枯追悼展vol.2

 その他、特別出品で虚子の軸、誓子、波津女、実花の短冊もかなり展示されていた。

 

 

「かばん」30周年記念冊子

「かばん」30周年記念冊子↑

追悼展を訪ねる前に、渋谷シダックスホールで行われた「かばん」30周年記念イベント「不思議なかばんを携えて」に顔を出した。

偶然だが、姫路から上京した柳人の樋口由起子、小池正博両氏と堺利彦氏にお会いした。

その折、ここに参加する前に、八田木枯追悼展に行ってきたとのことで、『鏡騒』を脇にされていた。

イベントのほうは、奥村耕作、中山明両氏の挨拶、トークショー「短歌の相談室」(司会・、睦月都、佐藤文香・穂村弘・佐藤弓生)、そして「歌合 短歌たたかう」(司会・雨宮真由、笹公人チーム・山田航、伊波真人、石川美南チーム・東直子、柳谷あゆみ)までを堪能し中座した。

八田木枯追悼展vol.3

八田木枯追悼展vol.4

 会場は、多くの俳句の会とは趣を異にしていて、展示コーナー、バザー、書籍販売などの賑やかさに加えて、多くの若い歌人たちに満ちていた。

「かばん」は前田夕暮の長男だった歌人・前田透「詩歌」の逝去によって誕生創刊された「先生のいないかばん」「なんでも入るかばん」「出入り自由のかばん」として、今日まで自在な容で、続いてきた、まれな同人誌である。その創刊時、井辻朱美、林あまり、髙柳蕗子など興味ある作家の集団でもある。

  わが愛する者に語らん樫の木に日があたり視よ冬すでに過ぐ       透

「かばん」30周年は、前田透没後30周年でもある。

八田木枯追悼展vol.5

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2013年5月 8日

6月号各取次ぎ廻り・・・

かたつむりvol.2

 昨日と今日で本誌6月号の各取次ぎ会社との仕入れ部数交渉に回った。

 毎月のことだが、いつもまたたく間にその交渉の日が来てしまう。

 昨日は、連休明けとあって、窓口は混んでいたが、今日は意外にスムーズに運び、

 最後の栗田出版販売が九段下駅から近いので、昼を神保町まで足を伸ばして、蕎麦を食べたあとに、

古書街を流していたら、菊田一平氏に声をかけられ、さらにそぞろ歩いていたら、どこかで見かけた人だと思い、立ち止まったら(愚生、実は近眼少々でよく見えない・・)、村井康司氏だった。

お互いお久し振りと健在ぶりを愛でて、挨拶したのだった。

 早稲田界隈に比べると、総じて古本の値は神保町の方が高い印象だ。

もっとも、ゆっくり見て歩いているわけではないが、店舗の数も多いし、それだけ古本の量も充実している。

おもえば、遠い昔、もう二十年以上前になるであろうか、田村書店の前で、攝津幸彦と偶然あったこともあるし、

文献書院が俳句の本で埋まっていたころ、句集に付けられた値段をみては、僕のほうが高い(攝津曰く)と呟いてみたり、この人は高い、この人はそれほどでもない、など・・と言ったりしたこともある。

(なぜかって、その頃、「書泉」は労働争議の真っ最中で、愚生はよく行ったのでした〈内緒ですよ・・〉)。

ネギボウズとポピー↓

ネギボウズとポピーvol.3

ヤグルマソウ↓

ヤグルマソウvol.5

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2013年5月 5日

俳人「九条の会」新緑の集い・・

鳴戸菜奈氏vol.1

鳴戸菜奈氏↑

少し遅くなってしまったが、先日、4月29日(月・祝)に行なわれた〈俳人「九条の会」新緑の集い〉に出席したので、

簡単に報告しておこう。

場所は東京・田町の専売ホール。講演は小沢隆一(東京慈恵会医科大学教授・憲法学、九条の会事務局員)と鳴戸菜奈(俳人)の両氏。

テーマは小沢氏が「日本国憲法で未来を拓く」、鳴戸氏は「渡邊白泉を読む」であった。

小沢氏は小選挙区の害の部分が出た、戦後最低の得票率であり、かつ得票数も前回を219万票も落した自民党が大勝をおさめ(自公の得票率4割で8割の議席を獲得)、議員3分の2から、過半数で憲法を改正できるようにするという、他の法律と同様の位置にまで憲法をおとしめようとする策動に対し、明確にノーという運動を展開しようという趣旨だった。

また鳴戸氏は、戦前の新興俳句の申し子ともいうべき白泉の句を三種類に分類し、白泉の戦争俳句を年代別に抽出し、句の解釈を施して説明された。

    日の丸の旗を一枚海にやる    白泉(昭和11年・23歳)

    緑蔭に非ず迷彩戦車是(これ)      (昭和12・24歳)

    赤く蒼く黄色く黒く戦死せり        (昭和13・25歳)

    銃後といふ不思議な町を丘で見た

    憲兵の前で滑つてころんぢやつた    (昭和14・26歳)

    戦争が廊下の奥に立つてゐた

    夏の海水兵ひとり紛失す          (昭和19・31歳)

    司令官戦死笑はぬ兵らなかりけり    

    玉音を理解せし者前に出よ         (昭和20・32歳)

 白泉は昭和15年のいわゆる新興俳句弾圧事件によって検挙され、戦後は中学・高校の教師をしながら、昭和44年(1969)に56歳で脳溢血のため急死した。

 そのおり、職場の金庫から丁寧に墨書された自筆の白泉句集が発見されたのだった。

↓なんじゃもんじゃの花

なんじゃもんじゃの花vol.2

こいのぼりvol.4

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2013年5月 1日

山本健吉文学賞贈賞式等&文學の森創立10周年・・・

昨日は、弊社にとっては、重要な一日だった。

通常業務は行わず、九州本社・東京支社とも、午前中に京王プラザホテルに参集してそれぞれの準備などに追われた。

午後一時からは第12回山本健吉文学賞、第14回俳句界評論賞、第5回文學の森賞、第3回北斗賞、文學の森特別賞の各贈賞式を行った。

↓第3回北斗賞(髙勢祥子・前列中央)と選考委員(後列右より・津川絵理子、四ッ谷龍、稲畑廣太郎)、第14回俳句界評論賞佳作(中央左右の男性・水之森果林、江連晴生)と選考委員(後列左より3番目・筑紫磐井)、文學の森特別賞(後列左より佐藤麻績、岸本マチ子、前列左より長島衣伊子、山咲一星、右より泉田秋硯,大坪景章代理江見悦子)の各氏

10周年祝賀会

↓第12回山本健吉賞(前列中央・俳句部門、山陰石楠。その左評論部門鈴木豊一)、選考委員・前列左から

二番目黒田杏子、3番目金子兜太。右から評論部門大串章、筑紫磐井)、第5回文學の森賞(後列右より武田そう〈手+悤〉一郎、古賀しぐれ、河野薫、久保るみ子〈純夫〉)、後列左端は山本安見子、前列左端は選考委員の松本旭、文學の森大賞(前列中央右側・淵脇護とその右は準大賞の河内静魚〉の各氏。

山健賞10周年

山本健吉文学賞の俳句部門山陰楠『天心』氏からはお祝いの挨拶の色紙をいただいた。

「重々」は弘法大師空海の言葉「重々帝網名即身」から重ね重ねてということ、「帝網」は帝釈天の帝のことで東西南北全天に見えない網が張りめぐらされていて、その結び目のひとつひとつが自ら輝いて他を照らすということらしい。そこより色紙の一章を考案された。

石楠色紙

また、評論部門鈴木豊一『俳句編集ノート』氏は、敬意を込めて挨拶の棹尾に一句を献じられた。

    なき人の声ぞこひしき四月尽            豊一

各贈賞式の後は、午後4時より、文學の森創立10周年・通巻200号記念祝賀会を開催した。

およそ500名の方々の皆さんのご参加をいただき御蔭様で盛会のうちに終了することができました。

感謝申し上げます。

↓挨拶をする社長姜琪東

挨拶をする社長

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