2013年7月11日

北田傀子句集『傀子二集』・・・

句集『傀子二集』vol.1

 『傀子二集』(かいじにしゅう)の著者・北田傀子は、1923(大正12)年、山口県生まれ、本年90歳を迎えている。

現在「草原」を発行する随句社社主。本名、茂(しげる)。

かつて、荻原井泉水「層雲」では、北田千秋子を名乗り活躍した。

手元の『層雲自由律90年作品史』からその作品を抽出する。

    焼跡を掘りおこす鍬こそは焼残り     千秋子(昭和21年)

    買いたきもの靴蝙蝠傘植物辞典春の日     (昭和22年)

    満場一致スト突入風の中枯木のように手をあげたところ (昭和23年)

    行員の一人が弁証法をよんでいるのも夏の日暑し (昭和24年)

当時、敗戦直後の時代背景を反映してあまりある句だが、ほぼ同時期の他の俳人の作品も興味深い句ばかりだ。例えば、

    たたかいは終わった秋へ撒くもの買いにゆく   木村緑平(昭和20年)

    ひとり戦死ひとり徴用ひとり虫聴く         井上一二( 〃 )

    雪にとどいて配給のこれは人を焼く薪(叔母死す) 荻原井泉水( 〃)

    無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ     橋本夢道(昭和21年)

    なにもかもなくした手に四まいの爆死証明     松尾あつゆき(  〃 )

    雨がもる ちがった音がもる             池原魚眠洞(昭和22年)

    目撃者一疋の蝿が出てゆく              芹田鳳車(昭和23年)

    からすと昼月とこの国の子供愛にうえる   近木圭之介(昭和24年)

 北田傀子には、長律の句を詠んでいた時期があったことを知るのである。そして、また、解説も推薦文もない、じつにシンプルな装いの本句集の「あとがき」には、自嘲気味ともおもえるが、じつは、いささかの矜持をしのばせた北田傀子の宣明をうかがうことができる。それには、以下のようにしたためられている。

   この世界で孤立状態にある自分だから、鬼の子でそれに人偏をつけて「人 

  間のなかの鬼の子」ということである。(中略)

   ところで「鬼子」は中国人が日本人を蔑視して言うことばらしいのだが、わ

  たしは日本人のはしくれだから甘受しておく。

 ともあれ、「随句」の理念にまで到達し、かつ、自由律俳句陣営の貴重なテキストの刊行であるがゆえに、わたしたち後続の世代には、じつに多くを学ぶことができる作品として、眼前にもたらされたことを喜びたい。

 最後になってしまったが、多くの印象に残った句のなかからいくつかを以下に上げさせていただきたい。

    老人の影で石段を上っていく       傀子

    呆けミスを謝る声がだせない

    老々介護も春のにぎわい

    思い出した名月の窓をあける

    切った爪をつまむ爪がない

    あたたかし字のない墓碑も洗う

    呼んでも開いてほしいまぶたは動くだけ

    やがて八十七よだれも涙も勝手にでる

    今日も開かない目の涙拭いてやる

    遺骨と並んで死人の笑顔

    老いては歌なし恋なし

    死ぬまでは生きるしかない句作り 

オシロイバナ↓

オシロイバナvol.2

閑話休題・・・

読売新聞今日の朝刊「編集手帳」に 吉田昌郎元福島第一原子力発電所所長の死を悼む記事のなかで、長谷川櫂の句「山哭(な)くといふ季語よあれ原発忌」に触れて、編集子は「長谷川さんの造語であるらしい『原発忌』という言葉が、悲しくもこれほど胸に迫る人はいない」と書かれていたが、その胸にせまることはその通りだとして、「原発忌」という造語が「長谷川さんのものらしい」というのは明らかに認識違いであろう。

3.11以後、「原発忌」という言葉自身をめぐってもいくつかの賛否の意見がいわゆる「俳壇」では交わされていたが、それはたぶん「原爆忌」から得た想であって、それ以上でもそれ以下でもないというのが実情ではなかったろうか。それゆえ、俳人の幾人か、かなりの人は、いち早く「原発忌」を詠んだはずだ。

あえて、蛇足をいえば、この句で長谷川櫂の表明したかったのは「山哭く」である。こ「山哭く」というあらたな季語が創出されてもいいではないかとうのが主眼だと思う。

ヘクソカズラ↓

ヘクソカズラvol.3

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