2013年10月10日

髙勢祥子句集『昨日触れたる』・・・

句集『昨日触れたる』vol.1

 句集名は、次の句から、

    くちなはや昨日触れたる所へと     祥子

昨年、弊社第3回北斗賞受賞作「火の粉」を第一章とし基に構成された一集である。

帯文は詩人の八木幹夫。「季語に迎合しない/知性とユーモアの句集だ」と言挙げしている。

序文は「街」主宰・今井聖。

祥子さんは、平成十一年よりは国文学者で俳人である復本一郎さんの薫陶を受けてきた。俳句古典への認識も言ってみれば筋金入りなのである」とし、さらに「内容としては感覚と季語の調和の問題。いずれも危うくも絶妙なバランスが、どうか統一の取れた堅実と言われる方向に収斂していかないように祈るばかりである。それは『芸』を掲げて『詩』を見失う老練な俳人への第一歩となることを意味するからである」と期待が大きいばかりに注文をつけることを忘れていない。

しかし、この句集を読む限りでは、その今井聖の心配も老婆心ながらというに等しいと思われる。

句集名ともなった「昨日触れたる所へ」だが、著者「あとがき」には、「庭に花が咲くとういうことも、さまざまな社会の事象も、重さに関係なく同じように自分の感覚で受けとめたい。触れたと実感したい。そんな思いを込めました」とあって、いかばかりか純情さのウラミを宿しているが・・・。 

だが、今井聖はたぶんこの句においては、「くちなはの」の本意を止揚している「くちなはの」であると、喝破するのであろう。が、この句には、それなりの年齢、人生を経てきた人ならばたぶん、良い意味での俗読みも生じるはずであろう。それは「昨日触れたる所へと」の神秘を言葉が負っているからだ。むしろその方が、この句における、いわゆる西洋的ポエジーでない詩性を感じさせられるはずだから。

ならば、著者が純情をもって記したくだりは、それはそれとして読んでおくほうが奥行きが生じるというものであろう。庭に花ではない・・・くちなはを配した由縁である。

期待の新人である。

感銘句を上げさせていただく。

    錆びてゆくものの味して花の雨

    花冷えや誰にも触れぬ手を洗ふ

    火の粉かと思ふ小雪の降り始む

    空き箱のまま持ち歩く春の夢

    二月尽走るとは息捨つること

    わたくしはどんどん洗ふ燕帰る

ザクロ↓

ザクロvol.3

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